LOGIN「俺は、莉奈と生きていきたい」
遼一の言葉が落ちたあと、ダイニングには妙に生活じみた音だけが残った。冷蔵庫の低い作動音、壁掛け時計が秒を刻む音、どこか遠くの道路を走る車の音。つい数分前までなら気にも留めなかったものが、今は耳の奥へひどく鮮明に届いた。
沙耶はすぐには返事をしなかった。
目の前には七年間連れ添った夫がいる。その隣には、夫がこれから一緒に生きたいと望んでいる女が座っている。なのに頭のどこかでは、明日の朝に出す予定だったクリーニングのことや、冷蔵庫に入っている牛乳の賞味期限まで思い浮かんでいた。
人間というのは、人生がひっくり返る瞬間にも、案外くだらないことを考えるらしい。
「……分かったわ」
そう答えると、遼一がわずかに身構えた。
「分かったって、何が」
「あなたが葉山さんと一緒になりたいと思っていること。離婚したいと思っていること。それは聞いたから分かった。でも、私にはまだ分からないことがあるの」
沙耶はテーブルの上で両手を重ねた。強く握れば震えが伝わりそうで、あえて指先には力を入れなかった。
「ちゃんと教えて。いつから二人で会うようになったの?」
遼一が眉間にしわを寄せる。
「さっき言っただろ。半年くらい前からだ」
「付き合い始めたのが半年くらい前、という意味でしょう。私が聞いているのは、その前から二人きりで会っていたのかどうか」
「それを細かく聞いてどうするんだ」
「私が決めるためよ」
「何を?」
その問いに、沙耶は少しだけ首を傾けた。
「これからのことを。離婚してほしいと言われたからといって、今この場で全部あなたの希望どおりに決めるわけにはいかないでしょう。私はあなたの妻で、七年間一緒に生活してきたのよ。何が起きていたのか知るくらいの権利はあると思うけれど」
遼一は返事をせず、ネクタイの結び目に指を入れて少し緩めた。
その癖も沙耶は知っている。追い詰められたときではなく、面倒な話を早く終わらせたいときにする仕草だった。
莉奈が遠慮がちに口を挟んだ。
「沙耶さん、私から話します」
遼一がすぐに横を向く。
「莉奈、いい」
「よくないよ。ここまで来て、遼一だけに説明させるのは違うと思う」
初めて聞いた。
夫を下の名前で呼ぶ、別の女の声を。
たった二文字だったが、それだけで胸の奥を細い針で刺されたような痛みが走った。
沙耶は黙って莉奈を見た。
莉奈は迷いながらも、視線を逸らさなかった。
「最初に二人で食事をしたのは、去年の十一月です。仕事の相談でした。私が担当していたキャンペーンで問題があって、上司には言いづらくて……神崎社長に相談したら、仕事が終わってから話を聞いてくれました」
去年の十一月。
半年よりずっと前だ。
沙耶は頭の中で時期を確かめる。十一月の遼一は、新しい取引先との契約で忙しかった。帰宅が遅い日も多く、沙耶は夜食を作り、食べない日は翌朝に回していた。
「それから?」
「何度か仕事の相談をしました。最初は本当に仕事だけです」
「二人きりで?」
莉奈は一瞬だけ遼一を見た。
「……はい」
遼一が不機嫌そうに言う。
「だから、それは不倫じゃないだろ。仕事の相談を受けただけだ」
「不倫だとは言っていないわ。ただ聞いているだけ」
沙耶は声を荒らげなかった。
自分でも不思議なほど冷静だった。
冷静というより、今はまだ感情が現実に追いついていないだけなのかもしれない。怒りも悲しみも、あまりに大きいものは一度に入ってこられず、入口でつかえているようだった。
「二人で食事をするようになったのが十一月。付き合い始めたのが半年前。では、その間に何があったの?」
莉奈の頬が少し強張る。
遼一が代わりに答えた。
「俺が家のことを話した」
「家のこと?」
「俺たちのことだよ」
沙耶の指先がほんのわずかに動いた。
「私たちの何を?」
「夫婦として、もう前みたいじゃないってことだ」
その言葉には、さすがに笑えなかった。
「前みたいじゃない?」
「ああ」
「それを葉山さんに相談していたの?」
「相談っていうか……話の流れでだよ。仕事のあとに食事をしていれば、プライベートの話くらいするだろ」
「私はしないわ。少なくとも、既婚者の男性と二人で夜に何度も食事をして、その人の夫婦関係について聞いたりはしない」
莉奈の表情が硬くなった。
「私を責めたい気持ちは分かります。でも、最初から奪うつもりだったわけじゃありません」
「そういう話をしているんじゃないの」
沙耶は静かに言った。
「あなたが最初から奪うつもりだったかどうかを聞いているんじゃない。私は、夫がいつから私との結婚生活を他の女性に話していたのかを知りたいの」
そこで遼一が苛立ったように椅子へ深く座り直した。
「沙耶、そこまで一つ一つ確認する必要があるのか? 俺が莉奈を好きになった。それで、離婚したいと思ってる。それだけで十分だろ」
「あなたにとってはね」
その一言で、遼一が黙った。
沙耶は視線を夫から外さなかった。
「私は昨日まで、普通に夫婦を続けているつもりだったの。あなたが帰ってくれば食事を出して、疲れていれば仕事の話を聞いて、あなたのお母様に何かあれば病院へ連れていっていた。あなたはその間に、私との夫婦関係がうまくいっていないと別の女性に話していた。だったら、私が知らないところで何が変わっていたのか知りたいと思うのは、そんなにおかしい?」
「別におかしいとは言ってない」
「さっきから、聞く必要がないと言っているでしょう」
遼一は口をつぐんだ。
莉奈がバッグを膝の横へ置き直す。
「私から言います。神崎社長――遼一さんは、沙耶さんと会話が減っていたって言っていました。家に帰っても仕事の話ばかりになるし、夫婦というより家族みたいになってしまった、と」
沙耶はしばらく何も言えなかった。
腹が立ったからではない。
意味が分からなかった。
「仕事の話ばかりになったのは、あなたが仕事の相談を私にするようになったからでしょう」
遼一が顔をしかめる。
「俺だけのせいみたいに言うなよ」
「じゃあ、私が毎晩あなたを捕まえて仕事の話をさせていた?」
「そういうことじゃない」
「あなたが新商品の発表資料を持ち帰って『一度見てほしい』と言った。取引先への謝罪文も『沙耶ならどう書く』と聞いた。人事のことで迷った夜も、私はあなたの話を聞いた。私はそれを夫婦の会話だと思っていたわ」
話しながら、沙耶はようやく分かった。
自分と遼一は、同じ時間をまったく違うものとして受け取っていた。
沙耶にとって、遼一の仕事を手伝うことは生活の一部だった。夫婦だからこそ支え合っているつもりだった。
遼一にとってはいつの間にか、それは妻が当然のように提供する便利な機能になり、その一方で「夫婦らしい会話がなくなった」と感じていたのだろう。
「私、そんなにあなたを放っておいた?」
その問いだけは、少し声が揺れた。
遼一の表情から苛立ちが薄れた。
「放っておいたとかじゃない。ただ……一緒にいても、昔みたいに楽しくなかったんだよ」
「いつから?」
「正確には分からない」
「子どもができなかったことも関係してる?」
莉奈がわずかに息を呑んだ。
遼一もすぐには答えなかった。
それで沙耶は、少なくとも彼女にはそこまで話していなかったのだと知った。
結婚三年目から、二人は子どもを望んでいた。
病院にも通った。
検査も受けた。
どちらか一方に明確な原因があったわけではない。それでも結果が出ない時期が続き、沙耶は毎月のように期待して、落ち込んで、それをなるべく遼一に見せないようにしてきた。
ある頃から遼一も検査や通院の話を避けるようになり、二年前には自然と治療を中断した。
「それは関係ない」
遼一が答えた。
沙耶はその顔を見て、嘘だとは思わなかった。
ただ、完全に関係がないとも思えなかった。
誰か一人が悪いのではない。
そういう小さなすれ違いを二人とも片づけないまま、仕事や日常で蓋をしてきた。
それでも、それは不倫の理由にはならない。
「分かった。そこはもういいわ」
沙耶は一度、息を整えた。
そして、次の質問をする。
「付き合い始めたのは、具体的にはいつ?」
遼一が答えた。
「四月の終わり」
「ゴールデンウィークの前?」
「ああ」
沙耶は記憶を辿った。
あの頃、遼一は新製品の発表を控えていて、帰宅が午前様になる日も多かった。
ある夜など、午前一時過ぎに帰宅しながら、沙耶が起きて待っていたことに驚いた顔をした。
『先に寝ててよかったのに』
そう言われて、
『お腹が空いてると思って』
と温めたスープを出した。
遼一は全部食べた。
スマートフォンを何度も気にしながら。
今思えば、答え合わせなどいくらでもできる。
けれど、過去の風景にあとから意味を足していく作業は、想像以上に残酷だった。
「初めて……夫婦として越えてはいけない線を越えたのは?」
遼一が明らかに嫌な顔をした。
「そこまで聞くのか」
「聞くわ」
「知ってどうする」
「あなたが判断することじゃないでしょう」
「自分で自分を傷つけるだけだぞ」
沙耶は、その言葉にしばらく夫を見つめた。
「私を傷つけたのは、質問じゃないわ」
それ以上は言わなかった。
遼一もようやく反論をやめた。
「……四月二十八日」
日付まで覚えている。
その事実が、沙耶には何よりきつかった。
四月二十八日。
忘れるはずがない。
翌日は美佐江の誕生日だった。遼一が仕事で忙しいというので、沙耶は一人で義母への贈り物を買いに行き、その夜は翌日の食事会の準備をしていた。
遼一は「取引先と飲んでくる」と連絡してきた。
午前零時を過ぎて帰ってきた。
翌朝、沙耶は何も知らずにその人のシャツへアイロンをかけた。
急に指先が冷えた。
「場所は?」
「沙耶」
「最後まで答えて」
遼一は迷った末に言った。
「ホテル」
覚悟していた答えなのに、胃の奥がひっくり返るような感覚がした。
沙耶は口元を手で覆いそうになり、やめた。
気持ち悪い。
夫が別の女を抱いた事実そのものより、その翌朝、自分が普通に彼へコーヒーを淹れた記憶のほうがよほど生々しく胸をえぐった。
莉奈が俯いている。
その姿を見ても、勝ち誇っているようには見えなかった。
むしろ居心地が悪そうだった。
当然だ、と沙耶は思う。
夫婦の問題の中へ入ってきたのは彼女自身なのだから。
ただ同時に、沙耶には少しだけ分かったこともあった。
莉奈は今日、この家に来れば遼一が離婚を告げ、それで終わると思っていたのかもしれない。
不倫の始まりから一つずつ聞かれ、その間、妻が何をしていたかまで突きつけられることは想像していなかったのだろう。
現実の裏切りは、恋愛ドラマのように「好きになってしまった」の一言では綺麗に片づかない。
裏切られた側が生活していた日々の数だけ、細かな傷がある。
「それから半年間、ずっと?」
「……ああ」
「何度くらい会ったの?」
遼一がうんざりしたように首を振った。
「数えてないよ」
「そう」
沙耶はそこは追及しなかった。
数を知ったところで意味はない。
一度なら許せるわけでも、十度なら許せないわけでもない。
「海外出張だと言っていた六月の週末は?」
遼一の顔が変わった。
それだけで答えが分かった。
沙耶は思わず目を閉じた。
六月、遼一は大阪で取引先との会食があり、そのまま翌日から香港へ飛ぶと言っていた。
沙耶は前日に荷物をまとめた。
替えのシャツも、常備薬も、ホテルで飲めるように胃薬まで入れた。
「香港には行った」
遼一が弁解するように言う。
「ただ、その前日の大阪は莉奈も一緒だった」
「会社の出張として?」
「莉奈にも仕事があった」
莉奈が口を開く。
「本当に仕事でした。その日は私もイベント対応があって――」
「そこは疑っていないわ」
沙耶は遮った。
「仕事が終わったあと、一緒に泊まったということね」
誰も否定しなかった。
静かな肯定だった。
沙耶は、もう十分かもしれないと思った。
これ以上聞けば、自分の記憶を片っ端から汚していくことになる。
けれど、もう一つだけ確かめなければならない。
「避妊は?」
莉奈の顔が赤くなった。
遼一が強い口調で言う。
「それは関係ないだろ」
「関係あるわよ。あなたは私の夫だったの。私の体にも関わることよ」
「してた」
「毎回?」
「……ああ」
その間が気になった。
けれど今すぐ答えを迫る気力はなかった。
沙耶は自分の腕を抱くようにして、ゆっくり椅子の背にもたれた。
「分かった」
今度は本当に、少し分かった。
何が起きていたのか。
遼一がどこまで自分を裏切っていたのか。
そして何より、この半年間、自分だけが夫婦の中に取り残されていたことが。
遼一はもう別の道へ踏み出していた。
沙耶だけが何も知らずに、二人分の家を守り続けていた。
「沙耶」
遼一の声が少し柔らかくなる。
「傷つけたことは、本当に悪いと思ってる」
沙耶は夫を見る。
「いつから離婚を考えていたの?」
「二か月くらい前から」
「それなのに、私には一度も話さなかったのね」
「言えるわけないだろ」
「どうして?」
「どうしてって……こんなこと、簡単に言えるわけない」
沙耶は思わず苦笑した。
「不倫をやめることはできなかったのに?」
「だから、そういう言い方するなよ」
「どういう言い方ならいいの?」
遼一は黙り込んだ。
沙耶はそこで初めて、少しだけ怒りを感じた。
大きな怒りではない。
むしろ冷たいものだった。
この人は、自分が選んだことなのに、選んだことによって生じる不快な部分だけは妻に穏便に受け止めてもらおうとしている。
離婚したい。
莉奈と一緒になりたい。
でも責められたくない。
悪人にもなりたくない。
七年間一緒にいたからこそ、遼一のその弱さが沙耶には見えた。
「あなた、私にどうしてほしかったの?」
「何が?」
「今夜。葉山さんを連れて帰ってきて、離婚してほしいと言えば、私はどうすると思っていた?」
遼一はすぐには答えなかった。
「……怒るとは思ってた」
「それだけ?」
「泣くかもしれないとも思ってた」
「引き止めると思った?」
沈黙が落ちた。
その沈黙こそ答えだった。
沙耶の胸の中に、悲しさとも可笑しさともつかないものが広がった。
「そうなのね」
「別に、そういう意味じゃ――」
「あなたは、私が離婚したくないと泣いて、葉山さんと別れてほしいと頼むと思っていたのね」
遼一は否定しなかった。
沙耶は七年間の自分を思い返した。
遼一の仕事を優先してきた。
社長就任のために必要なら、自分の予定は後回しにした。
義母から呼ばれれば動いた。
忙しい遼一が家庭のことまで抱えなくていいよう、できることは自分が引き受けてきた。
それら全部が積み重なって、遼一には「沙耶は自分なしでは生きられない」という結論になっていたのだろうか。
もしそうなら、こんなに虚しいことはない。
沙耶は立ち上がった。
遼一もつられるように顔を上げる。
「どこ行くんだ」
「今日はもう、これ以上話したくない」
「まだ離婚の条件も――」
「今夜決める話じゃないでしょう」
「でも」
「遼一」
沙耶は夫の言葉を止めた。
怒鳴らなかった。
それでも遼一は黙った。
「私は今、あなたが半年間不倫していたことを初めて聞いたの。しかも、あなたが二か月前から私との離婚を考えていたことまで今知った。なのに、あなたは今夜のうちに離婚条件まで相談したいの?」
「……それは」
「あなたには半年あったでしょう。でも、私にはまだ一時間もないのよ」
遼一の顔から言葉が消えた。
沙耶はそれ以上何も言わず、テーブルに並んだ料理を見た。
結婚七周年のために作った夕食。
もう誰も食べない。
赤ワイン煮の表面には薄い膜が張っていた。
急に、それを片づけたくなった。
「葉山さん」
声をかけると、莉奈が緊張したように顔を上げる。
「はい」
「今日は帰ってください」
莉奈が遼一を見る。
沙耶はその仕草に、もう何も言わなかった。
「少なくとも離婚が成立するまでは、ここは私の家でもあります。あなたと夫がどんな約束をしているのかは知りません。でも、今夜この家で三人で過ごすつもりはありません」
莉奈は唇を噛み、やがて立ち上がった。
「……分かりました」
玄関へ向かいかけたところで、沙耶が呼び止める。
「葉山さん」
莉奈が振り返った。
沙耶は彼女の足元を見た。
「そのスリッパ、置いていってください」
莉奈は一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
やがて自分が履いている淡い灰色のスリッパに気づき、慌てて脱いだ。
「すみません。私、知らなくて……」
「そうでしょうね」
それ以上は責めなかった。
莉奈は靴を履き、遼一に小さく「連絡して」と言って玄関を出ていった。
扉が閉まる。
ようやく家の中に、夫婦二人だけが残った。
けれど、不思議なことに沙耶にはもう、以前と同じ「二人」には思えなかった。
遼一が玄関から戻ってくる。
「沙耶、莉奈にあんな言い方しなくても――」
その言葉を聞いた瞬間、沙耶は夫を見た。
遼一は途中で口を閉じた。
何かを察したのだろう。
沙耶はしばらく彼を見つめ、それから淡々と言った。
「今夜、客用の部屋で寝て」
「沙耶」
「あなたに怒鳴りたくないから、今は距離を置きたいの。私だって、どこまで冷静でいられるか分からない」
初めて口にした本音だった。
本当は平気などではない。
泣きたかった。
皿を投げつけたい気持ちも、遼一に「どうして」と何度も聞きたい気持ちもあった。
それでも今それをしたら、全部が「取り乱した妻」の姿として処理されてしまう気がした。
そんな終わり方だけは嫌だった。
遼一はしばらく立ち尽くしていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった」
沙耶は夫に背を向け、冷めきった料理を一つずつ片づけ始めた。
赤ワイン煮を保存容器へ移し、サラダにラップをかける。パンは明日の朝にでも食べればいい。
手を動かしていれば、まだ泣かずに済んだ。
背後で遼一が言った。
「俺たち、もうずっと夫婦として終わってたんだと思う」
沙耶の手が止まった。
振り返らないまま尋ねる。
「誰が決めたの?」
「誰がって……」
「私は今日まで終わったと思ってなかった。それなのに、あなた一人が終わったと決めて、別の女性と始めていたんでしょう」
返事はなかった。
沙耶は蓋を閉めた保存容器を冷蔵庫へ入れた。
そして、ようやく夫を振り返る。
「遼一。私、あなたが葉山さんを好きになったことより、そっちのほうが悲しい」
「そっち?」
「夫婦が終わったと、私だけ知らされていなかったこと」
遼一の顔がわずかに歪んだ。
沙耶はそれ以上言わなかった。
話せば泣く。
泣けば、今夜はもう自分を保てない。
寝室へ向かい、扉を閉めた。
鍵はかけなかった。
七年間、一度も夫を締め出したことのない寝室だったから、最後まで鍵をかける気にはなれなかった。
ベッドの端に座ると、そこには遼一が使っている枕があった。
沙耶はしばらくそれを見ていた。
半年間。
このベッドで眠り、自分の隣で朝を迎えながら、遼一は別の女性を抱いていた。
二か月前から離婚まで考えていた。
自分は何一つ知らなかった。
ようやく現実が追いついてきた。
沙耶は左手から結婚指輪を外そうとした。
けれど七年間つけ続けた指輪は、関節のところで引っかかった。
一度では抜けない。
それがひどく情けなくて、今度こそ涙が落ちた。
「……こんなときまで、簡単には外れないのね」
誰に聞かせるでもなく呟き、沙耶は指輪を元の位置へ戻した。
今夜はまだ外さなくていい。
離婚すると決めたわけではない。
許すと決めたわけでもない。
ただ一つだけ、もう以前のようには戻れないことだけは分かった。
沙耶は頬の涙を拭い、ベッド脇のスマートフォンを手に取った。
画面には、七年前の結婚式で遼一と笑っている写真が映っていた。
明日になったら、この待ち受けを変えよう。
そんな小さなことを決めたとき、沙耶は初めて、自分の人生が夫とは別の方向へ動き始めたことを感じた。
第25話 妻に頼らず仕事を回すために、会社を変えなければならなかった翌朝、遼一が出社すると、昨夜自分で追加した一枚の資料が机の上に残っていた。『この商品を、誰のどんな時間に置くのか』見出しだけなら、以前沙耶が作っていた資料とよく似ている。だが、中身はまだ半分しか埋まっていなかった。三十五歳から五十歳を中心とする既存顧客。仕事を終えて帰宅した夜。休日の朝。来客前。自分のために部屋を整えたいとき。贈答用なら、親しい相手の新居祝いや誕生日。いくつか書いてみたものの、どれもどこか商品企画書らしい言葉で、生活の匂いが薄い。遼一は椅子へ腰を下ろし、しばらくその一枚を見つめた。沙耶へ聞けば早い。その考えは昨夜すでに捨てた。ならば会社で作るしかない。問題は、誰に作らせるかではない。どうすれば今後も会社の中で考えられるようになるかだった。午前九時、遼一は秘書へ内線を入れた。「長谷川部長と商品企画の高田課長、それから営業から一人、EC担当から一人。十時に小会議室を押さえてくれ」『広告代理店も呼びますか?』「今日はいい。社内だけでやる」『承知しました』通話を切り、遼一は資料を閉じた。以前なら、各部署から上がってきた情報を自分がまとめ、最後に沙耶へ見せる。それで十分だと思っていた。会社の中で作れない部分を、家庭で補っていたのだ。しかも無料で。その状態を「自分は仕事ができる」と思っていた。認めたくないが、そこはもう認めるしかない。十時。小会議室に集まったのは、マーケティング部長の長谷川、商品企画課長の高田、法人営業の女性課長・野村、EC担当の三十代男性・石井だった。全員、急な招集に少し戸惑っている。遼一は昨夜作った一枚を配った。「今日は広告案を決める会議じゃない」長谷川が資料を見る。「これは?」「新
第24話 元妻がいなくなって初めて、会社の会議が噛み合わなくなった神崎ライフスタイルの新商品発表会まで、残り三週間。午前九時から始まった広告戦略会議は、一時間二十分を過ぎても結論が出ていなかった。遼一は会議室の正面で腕時計を確認し、目の前の資料をもう一度めくった。新商品は、ホテル客室や一般家庭向けに展開する高価格帯のルームフレグランスシリーズだった。香りそのものは悪くない。開発には一年近くかけている。容器のデザインにも金をかけた。大手百貨店二社との商談も進み、自社ECだけでなくホテルのアメニティ展開も視野に入れている。会社としては、今期後半の柱にしたい商品だった。だからこそ、広告で失敗するわけにはいかない。「もう一度整理しましょう」遼一が言うと、広告代理店の担当者がパソコンを操作した。大型モニターへ、三種類のキービジュアルが映る。一つ目は、若い女性モデルを全面に出した華やかな案。二つ目は、白を基調に商品だけを見せる高級感重視の案。三つ目は、ホテルの客室を背景にしたライフスタイル提案型。どれも悪くない。だが、どれも決め手がない。「葉山さんは一案目を推すんですよね」マーケティング部長の長谷川が確認すると、莉奈が頷いた。「はい。SNS広告まで考えるなら、一番止まってもらいやすいです。商品だけの静物だと、高級感は出ても拡散は弱いと思います」「でも既存顧客は四十代以上が中心だ」営業本部長が言う。「若い女性へ振りすぎると、今までのブランドイメージから浮かないか?」「だから今回は新規層を取りにいくんじゃないんですか?」莉奈はすぐに返した。「既存顧客だけ見ていたら市場は広がりません。二十代後半から三十代前半の女性を取るなら、今までと同じ見せ方では駄目だと思います」言っていることは間違っていない。遼一も、当初はその方向を支持していた。しか
第23話 私の企画が、七年ぶりに採用されたホテル・アステリアの改善案を正式に提出する日の朝、沙耶は目覚ましが鳴る十分前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。むしろ前夜は珍しく早めに布団へ入った。それでも体のどこかが今日を意識していたらしく、目を開けた瞬間から頭の中に資料の構成が浮かんだ。由香の家へ来てから何度も使ったダイニングテーブルには、昨夜のうちにまとめておいた書類が置いてある。最終案は二十八ページ。最初に考えていたより、ずっと地味な内容になった。大規模改装はしない。若者向けへ一気にブランド転換もしない。新しいレストランを作るわけでも、有名人を呼ぶわけでもない。まず、今いる客を取りこぼさない。宴会、宿泊、レストランを別々のサービスとして売るのではなく、客がホテルを使う目的ごとに案内をつなぐ。法事。同窓会。家族の節目。親を連れた食事。地域へ戻ってきた人が、複数の用事を一か所で済ませられるようにする。そのうえで、現在の常連客から次の世代へ利用をつなげる。派手ではない。しかし今の沙耶には、それが一番アステリアに合っていると思えた。キッチンへ行くと、由香がすでにコーヒーを淹れていた。「おはよう。顔、固いよ」「そんなに?」「面接受けに行ったときより固い」沙耶は冷蔵庫からヨーグルトを出した。「今日は自分で考えたものを採るかどうか決められるから」「面接だって自分を採るか決められてたじゃん」「それとは違うよ」「何が?」沙耶は少し考えた。「面接のときは、私自身が評価されてる感じが強かった。でも今日は、私が考えたものが使えるかどうかを見られるでしょう。だから……」「自分と仕事を分けられる?」由香に先を言われた。沙耶は少し驚いて
第22話 「やっと仕事に戻ったんですね」久世蒼士へ渡す修正版の資料を仕上げたのは、日付が変わる少し前だった。沙耶は最後のページまで見直し、ファイル名をつけて保存した。『ホテル・アステリア現状分析_改訂版』いったん送信画面まで進み、そこで手を止める。今回は相川を通して久世ホールディングスへ送ることになっている。直接蒼士へ連絡するわけではない。それなのに、提出ボタンを押すだけで妙に緊張した。会議の最後に言われた言葉が残っている。――自分で出した結果まで、先回りして小さくする必要はないでしょう。資料を直すとき、その指摘を何度も思い出した。十一室の宿泊予約についても、以前なら「一件のみであり偶然の可能性も高い」と冒頭から予防線を張っていただろう。今回は違う。『試験運用一件目では、宴会付随の宿泊見込みが五室程度から十一室へ増加した。案内経路を整理したことで既存需要を取りこぼしにくくなる可能性が示された。ただし、現時点では一例のため継続検証が必要である』結果は結果として書く。そのうえで限界も書く。誇張もしない。縮めもしない。たったそれだけのことが、沙耶には思った以上に難しかった。「まだ送ってないの?」ソファでテレビを見ていた由香が、画面から目を離さずに言った。「今送る」「十五分前も聞いた」「最終確認してたの」「十二回目?」「今日は八回くらい」「改善したねえ」完全にからかわれている。沙耶は苦笑して送信した。「送った」「お疲れ」「……うん」「何、その顔。公開告白でもした?」「仕事の資料送っただけ」「じゃあ寝な」「そうする」そう言いながら、沙耶はすぐにはパソコンを閉じなかった。送った以上、もう自分の手から離れた。
第21話 七年ぶりに戻った業界で、私は彼と出会った久世ホールディングスとの打ち合わせを二日後に控えた夜、沙耶は資料の一ページ目を十二回目まで直していた。由香のダイニングテーブルにはノートパソコンとホテル・アステリアの資料が広がり、いつの間にか仕事用の場所として定着しつつある。最初は遠慮して毎晩片づけていたが、由香から「朝また全部出すなら端に寄せとけば」と言われて以来、食事のときだけ資料を重ねて椅子の横へ置くようになった。画面に表示されている一文は、前回から変わっていない。『ホテル・アステリアの問題は、魅力がないことではない。すでにある価値が、客の目的に沿ってつながっていないことである。』問題は、その次だった。十一室の宿泊予約が入った。宴会と宿泊の情報共有を変えたことで、少なくとも一件は取りこぼしを減らせた。レストラン利用者への聞き取りでは、若い世代がアステリアを嫌っているというより、「自分が使う場所として思いつかない」という反応が多かった。そこから、『設備別の販売から、利用目的別の提案へ』という方向性までは見えている。だが、それだけでホテルが立て直るとは言えない。「また消した」キッチンから由香の声が飛んできた。沙耶は驚いて振り返った。「見てたの?」「さっきからキーボードの音が、打つ、止まる、消す、打つ、止まる、消す、なの。聞いてるだけで分かる」「怖いな」「何に悩んでるの?」由香はマグカップを二つ持ってきて、一つを沙耶の横へ置いた。中身はコーヒーではなく、温かいほうじ茶だった。「ありがとう」「どういたしまして。それで?」沙耶は画面を見ながら答えた。「明後日の打ち合わせ、相手が大手だから」「久世なんとか?」「久世ホールディングス。ホテルだけじゃなくて、不動産もレストランもやってる。昔から業界では有名だった」「偉い人が来るんだ
第20話 ホテルが売っていたものを、お客様は欲しがっていなかった十一室の宿泊予約が入った翌日、沙耶は嬉しさをいったん脇へ置くことにした。数字が動いたのは事実だった。しかし、一件うまくいっただけで「改善策は成功です」と言ってしまえば、それまで何度も新しい施策に振り回されてきたアステリアの現場と同じことを繰り返す。なぜ十一室増えたのか。本当に共有方法を変えたことが理由なのか。もともと宿泊する予定だった人が、たまたまアステリアを選んだだけではないのか。確かめなければならなかった。午前中、沙耶は森川から同窓会幹事とのやり取りを見せてもらった。もちろん個人情報に触れない範囲だが、宿泊案内を送ったあとの反応は分かる。「最初は五室くらいって話だったんですよね?」沙耶が尋ねると、森川は頷いた。「幹事さんが把握してたのが五室です。でも案内を参加者全員に回してくれて、それを見た人から個別に連絡が来ました」「何が決め手だったか聞きました?」「二人だけですけど。片方は『宴会終わってそのまま部屋に上がれるなら楽だから』って。もう一人は『朝みんなで食べられるならこっちでいい』って」「料金は?」「安いとは言ってなかったです。駅前より少し高いですし」それは沙耶にとって重要だった。安くしたから取れた十一室ではない。利便性が伝わったから選ばれた可能性がある。「宴会会場と宿泊場所が同じこと自体に価値があるんですね」「まあ、飲む人には大きいでしょうね。駅前まで移動しなくて済むし」「でも、それって今まで積極的に案内してなかった?」森川が苦笑した。「聞かれたら答えてました」「聞かれたら」「はい」客が知らなければ、存在しないのと同じだった。沙耶はノートへ書き込む。『利便性はある。伝えていない。』それだけなら広告の問題にも見える。だが、







